2014年4月16日水曜日

03.コーヒーの味について


まあ、コーヒーの味については、産地がどこだのブレンドがどこだの浅煎りがいいだの深煎りがいいだのと、コーヒー通あるいは専門家と称するぱーがいーろいろのたまわっているわけであるが、味てなもんはコーヒーに限らず、ひとりひとりが育った環境地域によって千差万別で、何が正しい何が間違ってるてなことではないのである。

えらそーにコーヒー通あるいは専門家と称するぱーが「これが絶品の味だ!」と言い張っても、あたしがまずけりゃ、そのコーヒーはまずいコーヒーであるのである。

その入れ方・飲み方は間違ってるといわれても、大きなお世話であるのである。

他人がどういおうが、自分がおいしいものがおいしいのは当たり前であるのである。

専門家もシロートもないのである。

たとえば、あたしが絶品の味と感じる江戸前のそばも東北の人が食えば「こんなもの甘くて食えたもんじゃない」という人もいるだろうし、関西の人が食えば「うへえ、しょっぱくて食えたもんじゃない」という人もいるわけである。

つまり、甘かろうがしょっぱかろうが硬かろうが柔らかかろうが、その人がおいしいと思えば、それはおいしいそばであるし、その人がまずいと思えばそれはまずいそばであるのである。

コーヒーも同様に、インスタントコーヒーでも、なんだかわからんファミレスなどの飲み放題のドリンクバーのコーヒーでも、それをその人がおいしいと思えば、それはおいしいコーヒーであるのである。

酸っぱかろうが苦かろうが香りがどうだろうが、新鮮だろうが酸敗してようが、その人がおいしいと思うコーヒーが、その人にとっておいしいコーヒーであるのである。

砂糖を何本何個入れようがミルクやクリームあるいは乳頭を主原料とするパウダーあるいはミルクと称する植物性オイルをどれくらい入れようが、それがその人にとってうまければ、それが正解の味であるのである。

その人の基本的な味覚の好き嫌い・判断基準となるものは、代表的なものが「おふくろの味」であるのである。

人間の脳はだいたい20歳ぐらいで、脳神経のスパインの成長を止めてしまうので、幼児期から少年期に食べたもので、その人の基本的な味覚の好き嫌いができあがってしまうわけである。

これは生命維持のための選択の基本でもあるのである。

母親に食べさせられた味で安全に育つことができたわけであるから、それが生きるために一番安全な味であるということであるのである。

それ以外は、危険な味ということになるので、なかなか馴染めなかったりもするのである。

だから、たとえば、あたしは従前、コーヒーショップを経営してたことがあるので、専門業者の指導も受けているのでそれなりに知識もあるわけであるが、だからといってあたしがこれでもかとその知識技術を駆使して、産地がどうの、ブレンドがどうの、焙煎がどうの、ミルがどうの、抽出法がどうのとこだわっても、それはあたしが育った環境による刷り込みでその味が好きだというだけの話で、それが他人にとって最良の味や香りであるということではないのである。

だから、このブログは大きなお世話である味について云々するブログではないのである。

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